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“「消費」とは違うかたちで本と出会うための場所”

本HPにお越しいただき、ありがとうございます。
このストア、つまり鎖書店は、利用者と本との間に「新しいかたちの出会い」が生まれることを願って立ち上げました。

鎖書とは、なんらかの関係で繋がった複数の(主に3冊の)本のことをいいます。
もちろん造語です。

以下、長文になりますが本ストアについて説明します。
ご興味のある方はどうか最後までお付き合いください。

 * * * * * *

一冊の本はふつう、著者が本の中に書いた文章を、その本を手に取った読者が読むものです。
つまり、本を介して著者と読者が一対一で相対する。
無論そうすると、著者と読者との関係はその一冊の中で閉じることになる。

いっぽう、上下巻やシリーズものは、複数の本の間に関係がある。
また、同じ著者の本、同じジャンルの本…と、ある枠組みを考えれば、その中に含まれる複数の本も、互いに関係をもつ。
こういった関係はすべて、外的な、客観的な関係です。

さて、この客観的な関係に対して、「主観的な関係」を考えることができます。

主観的な関係とは、例えば「私が読む本は、他ならぬ自分が読むという理由によって互いに関係がある」といったものです。
ある人の家の、本棚に並ぶいくつかの本は、それらがそこにあるというだけで関係がある。
また、「本Aを読んでいる(読み終わった)時に本Bのことが頭に浮かんだから、本Aと本Bとは関係がある」という形もそうです。

一人の人間の経験をよりどころとして並べ置かれる本たちは、主観的な関係によって結ばれている。


本ストアにおける鎖書とはまさに、店主(僕)の独断と偏見という主観的な関係をもつ本たちです。
それは、大阪・九条のアトリエに自作した書庫にある多ジャンルの蔵書(複数の読書家から引き取った古本です)から選書する、「連想」という意識活動一点に方針を絞っての、当の本たちにとっても思いも寄らない組み合わせ。

そんな、わけが分からずこじつけで意味なんてないかもしれない本のセットを、誰が好んで買うのか?
と、そう考えるのが常識かもしれません。

いや、ちょっと待ってください。
常識は円滑な日常生活のために欠かせない知見ですが、物事を深く考える時には、その「潜水作業」の邪魔になることもある。

ここではどうか、その常識を「括弧」に入れてから、先に進んでください。

 * * *

僕は最初に「新しいかたちの出会い」を生み出したいと書きました。
ふつうに、と言えば現代なら、書店で、古本屋で、あるいは某アマゾンサイトで本を買うのとは違う形式に基づいた「本との出会い」を実現させたい。

では、鎖書店で本を買うことの、なにが「新しい」のか?

ポイントは、ここで本を買おうと思うあなたはある鎖書の価値、つまりセットで買うことになる三冊の本の価値を、よく分かっていないという点にあります。
よく知りもしない一人の人間が、(たとえ彼が司書資格を持っているのだとしても)「個人的な連想」が方針だ、などと言って選書した組み合わせの意味を、本を読む前から理解するなんて不可能です。
当然ですね。

まあ、それはさておき。
ここでちょっと、あなたが何の因果か本サイトを発見してから起きる出来事について想像してみましょう。


たとえば。

あなたは鎖書店の商品ラインナップを眺めています。
そして、「鎖書のうちのある一冊を読んでみたい、でもあとの二冊は特に興味がない」と思ったとします。
「賢い消費者」的な感覚からすれば、あなたはその読みたい一冊だけを、ここではないどこか別のところで買うでしょう。

──俺(私)がもし、その一冊のことを(読む前なのに)よく分かっていて、読み終えれば自分がどのような満足を得るかも予想できていて(気晴らし、気分転換、現実逃避…etc.)、コンビニでサンドイッチを買うのと同じように、買って食べる前と後とで(お腹の状態を除いて)自分が何も変わらないことを望んでいるのならば、その読みたい一冊だけを、一番安くて、ついでに手間のかからない手段で買えばいい。

「でも」と、ふと考える。

でもそうではなく、その自分が読みたいと思った一冊のことを実はよく知らないし、レビューも見ていないけれど、なぜかしら興味が湧いたのであって、読んだあとに何が起こるか想像できない(面白いかもしれない、つまらないと思うかもしれない、あるいは感想とか評価とかがどうでもよくなるくらい自分の価値観が変わるかもしれない)、そのことが少し不安ではあるが、この「結果が予測できない」こと自体を楽しむ気持ちが、俺(私)にはある。
何よりも、その本が内に蔵している未知と、それを読んだ時に起こりうる自分の変化、これらに対する好奇心がある。

もしあなたが、本に対してそのような気持ちを抱いている(あるいは、そんな気持ちで本を読んでみたい)とすれば、あなたが読んでみようかなと思った一冊の本が、単なる一冊ではなく「鎖書」という形であなたの目の前にあることは、未知と変化に対するその好奇心をさらに刺激するきっかけとなるはずです。

 * * *

僕は、本は「消費するもの」ではないと考えています。

理想の消費者は、商品の値段がその使用価値に見合うかどうかをじっくりと見定め、価値と値段の差し引きがマイナスにならない(あわよくば最大化する)場合に、購入を決断します。
しかし、正直に考えて、書店に数多く(整然と、あるいは雑然と)並んだ本に対して、それと同じ姿勢がとれるでしょうか?

少なくとも僕は、イエスと答えることができません。


本の価値は、それを使い切るまで分からず(いや、使い切ることができるのかどうかでさえ疑問です)、かつ読者一人ひとりにおいてその判断基準が大きく異なる。
つまり、本の本質的な価値はお金に換算できないことはもちろん、万人が納得できる客観的な指標も存在しない。
巷で売られる新刊本や古本の値札につけられた数字は、流通価格という間に合わせのものでしかありません。

これは言い方を変えれば、
「本の価値は読み手が自分で決める」
「その本を読むうえで起こることに対する責任は読者が負う」
ということです。

 * * * * * *

長い道のりでしたが、ここまでお読みいただき感謝します。

さて、鎖書店のコンセプトについて長々と説明してきました。
最後にこれまで書いてきたことを、実際的な表現にまとめて付言しておきます。


本ストアを訪れ、ひととおり眺めたうえでこう思う方は当然おられると思います。
「余計な本がくっついている」
「ムダに値段が高い」
と。
上述の通り、それは消費者的感覚として正しい反応です。

ただ、そのそれぞれに理由はあります。

「鎖書」という形式で販売しているのは、一冊の本が(読者=あなたの中で)その一冊の内容が持つ以上に「発展」する可能性を込めているためです。
「値段が高い」のは、そこに、手前勝手ではありますが選書料金と、「読者自身がこの本の価値を見出すのだ」と自分に発破をかけるための散銭(←機能としては賽銭のようなものです)が含まれていると、そうお考え下さい。


これらのことに納得いただいて(もちろん、納得しなくてもよいのですが)、当鎖書店をご利用いただけますと幸いです。

敬具

ブリコラジール代表 兼 ブリコラジール=サンタナ鎖書店主
千田尚之
2019年10月29日
2020年7月8日 改訂